牛歩的写真中心網録”

伊豆半島ジオパークと道祖神を中心にアウトドア活動を、写真で記録しています

箱根旧街道・山中城

ふるさとガイドの現地実習で、箱根旧街道の一部と山中城に出かけました。泣きそうな天気の下、マムシスズメバチに遭うこともなく、無事に終了しました。


山中城の下の駐車場から北條橋を渡ると、復元された石畳の旧街道に出る。発掘された江戸時代の石に追加で近くで取れた石を補って、元通りに復元したとのこと。道幅は2間で、材料を節約するためにできるだけカーブを少なくした直線を用いている。
石畳の要所々には、路を斜めに横切って、石がかさ上げされていて、これが排水溝となっている。尚、使われている鉄平石は、玉沢の石切り場の物と言われている。


山中城の発掘調査団長を務めた斉藤先生の名ガイドで、戦国末期の山中城攻めの際に、一番乗りを果たした渡辺勘兵衛の覚書に忠実に、攻撃したルートを歩いた。
現在、山中城の周囲は植林されているが、戦い当時は全ての樹木は切り払われて、攻城軍の動きは良く見えただろう。また、復元された堀などに共通するが、実際はもっと深く急峻だったとのこと。

1)岱崎出丸(国道1号線の南側一帯)
北條方では、豊臣軍は尾根伝いに西の丸から攻めてくると想定していたが、勘兵衛は岱崎出丸から攻め立てた。岱崎出丸はまだ築城途中の未完成であったことと、守りが手薄であったため、短時間で破られてしまった。

岱崎出丸から攻城軍側の西南を見る御馬場堀(急傾斜の箱根ローム層を手掘りした堀、畝は掘り残してある)
一ノ堀 攻撃軍を阻止する最初の畝堀すり鉢曲輪 一ノ堀を越えてきた攻撃軍がすり鉢の底に滑り落ちて、溜まっている水で動きを鈍くする(安全のため、底上げしてある)

2) 三ノ丸

三ノ丸堀(自然の川を利用した堀)田尻の池(兵馬の飲み水や兵馬を洗うための池で、飲用の箱井戸とは土塁で分離されている

3) 二ノ丸

二ノ丸から虎口を見下ろす(二ノ丸の虎口を過ぎるといきなり道は狭くなり、急傾斜となる。その上、ローム層むき出しで滑りやすい。もたもたしていると、二ノ丸から飛び道具で狙われる二ノ丸から西櫓に続く二ノ丸橋を見下ろす

4) 西ノ丸
西ノ丸の三方は、障子堀や畝堀で囲まれている。戦いが始まって4時間後に、西ノ丸で戦った200名の北條方は討死した。

最後に、戦死した北條方の兵士(多くは駆り出された農民)の冥福を祈るため、三ノ丸の宗閑寺にある北條方武将の墓で手を合わせた。
この他に、本丸・北ノ丸・兵糧庫などがあるが、次回のお楽しみとなった。

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