牛歩的写真中心網録”

伊豆半島ジオパークと道祖神を中心にアウトドア活動を、写真で記録しています

丹那盆地の道祖神 再確認

思い立って、丹那盆地の小字と道祖神の位置関係を調査してみた。ほぼ集落の境(入り口)に置かれている(置かれていた)ようだ。

下丹那の西はずれに単体(立像・浮彫)道祖神西方の西側の八島手神社の境外に安置されている伊豆型道祖神
西方の名賀の境の三差路の辻には、破損した二基の石造物がある。単体(立像・浮彫)の道祖神だったようだ。畑の皇産霊神社南の基壇上に、ずんぐりとした伊豆型道祖神(左像)と摩滅した小さな双体道祖神(右像)が、道路工事かなにかの事情で、平成四年にここに移された
乙越と畑の境、丹那断層公園手前の辻に、伊豆型の道祖神新山と乙越の境の橋の袂に双体道祖神
記念碑群を順光で


ジオツアー三島【下田街道沿いの頼朝伝説を訪ねる】

静岡県地学会・東部支部主催のジオツアー三島64に参加して、大場~三嶋大社にかけての下田街道沿いの頼朝伝説を訪ねた。

間宮の廣渡寺の八幡宮[頼朝は百日祈願の途中、仮眠していると、夢に阿弥陀さんが現れ、願いをかなえると告げられた]地元では間眠神社ともいう廣渡寺墓地に眠る大場の久八の墓石(これは三代目になるらしい)久八は生粋の侠客を貫き通して、街道でも顔役だった
間宮の新明神社[頼朝が山木館を攻めたときに人馬を揃えた]との言い伝えがあるケヤキの巨樹 樹齢400年(秀吉の小田原攻めの際に、北伊豆の大きな木は伐採されているはず)
御殿川と大場川の合流点梅縄城跡は後北条から元和まで続いた領主の屋敷跡 御蔵場もあった
梅名の梅竜寺の六地蔵(長岡凝灰岩の中部層で、緑色)梅名の右内神社の力石
右内神社 [頼朝が百日祈願の際に参詣したが、境内に手洗い水が無いため、長刀で参道脇をつついたら水が湧き出した]との伝説がある宇米都池(以前はウナギが生息していたウナギの池?)
もうひとつの宇米都池跡の碑塚田の碑跡(太閤検地の名残らしい)
道の奥に、古い佐内神社跡があるそうだ手無地蔵堂の石造物群 [頼朝が百日祈願の際、このあたりを通ると美女が後をつけてくる。うるさく思って美女の片手を切り落としたところ、地蔵の手が無くなった]御開帳の時に拝観できるか?
東洋ゴムの踏切あたりを以前の下田街道はまっすぐ通っていたのだろう
旧三島測候所 北伊豆地震の観測も行った。平成15年から無人化された今はアメダス無人で観測
間眠神社 [百日祈願の際に、境内の松の下でまどろんだ]今の松は三代目らしい。大注連縄は長崎の人が奉納している。重量のバランスをとるため、鳥居は初めから傾けてある
間眠神社の境内外には、菅笠の原料となるスゲが育てられている間眠神社前の細い道が在庁道と考えられている
間眠公園に残る石橋は三島溶岩製妻塚観音堂[頼朝の百日祈願を付け狙う男があった。男が頼朝と思って切り殺したが、自分の妻だった]
言成地蔵堂
法華寺に残る頼朝の腰掛石地蔵尊は、頼朝が心経を写経して奉納した経塚を護る?
祐泉寺市ケ原廃寺の塔心礎石(御殿場泥流の巨石)
三嶋大社のタタリ石安達藤九郎が頼朝警護のために待機した松
神池 [頼朝が放生会を行った]牛石[頼朝が参詣の際に、後ろに現れた怪物を切りつけたところ、牛のような大石に刀傷が残った]
頼朝・政子の腰掛石神護寺への参詣道が流鏑馬に使われる
宝物殿前の狛犬(吽形)阿形の狛犬(どちらも小室石)


ナコウ山・ハナレ山の石丁場跡

伊豆ジオ遺産の取材に漏れていた宇佐美の江戸城石丁場遺跡に出かけた。

郷戸公園に立ち寄り、刻印石(折敷に三文字)を見てくる石丁場コースの入口の砂防堰堤に置かれている刻印石(折敷に三文字)のサンプル
切り出した石をズリ降ろした石曳道洞の入の石桐場には矢羽根の刻印石が多く残る
洞の入りの石丁場跡。矢羽根と折敷に三文字以外の刻印石は見つけることができない。大規模な石切りではなく、埋まっている石を掘り出していたのか?
洞の入からナコウ山への道が分からなく、やむを得ず獣道もないやせ尾根を直登して、ナコウ山に向かった。どうやらナコウ山の山頂を勘違いしていたようで、別のピークに向かってしまった。引き返すのも大変なので、そのままハナレ山に向かう(ナコウ山からハナレ山への登山道は急斜面のやせ尾根につけられていて、ロープを伝って落ちるように降りる)
ハナレ山の石丁場跡(私有地の竹林の中にあるが、見学は許可されている)留田からハナレ山を展望


-大崎海岸 大崎海岸の記事が不確かになったので、再訪してGPSと画像を一致させた。

大崎火山の模式地の確認黒崎の確認


留田の浜の築城石(石船)も見つからなかった、

大観山の夕景

西の空がざわめいているので、大観山に出かけた。先客が多かったが、何とか三脚を据えて入日を待つ。

TwilightBlueフィルターで青い空と赤い雲を強調
暴れる雲をモノクロで表現
それほど赤くは焼けなかったが、雲に救われた夕日だった天候が安定することを祈るばかり


牛歩的写真中心網録”