牛歩的写真中心網録”

伊豆半島ジオパークと道祖神を中心にアウトドア活動を、写真で記録しています

歴史講座

伊東市役所で開催されたジオパーク歴史講座に参加しました。まちこん伊東のPRにより定員の倍の200名も出席で、伊東市民の参加意識の高さに驚きました。講師は、”江”などのNHK大河ドラマ時代考証を多く手掛けている。フィクションであるドラマの中での時代考証の難しさを解説してくれた。

  • 伊豆の大地を駆け巡った武将たち:Dr.小和田
    1. 畠山国清の乱と三つの山城

畠山国清は北條尊氏が関東地方の統治のために設置した次男の鎌倉公方足利基氏を補佐する立場の関東管領となり、伊豆の守護となった。金山城(大仁の城山)、三津城(発端丈山)、修善寺城(伊豆市の城山)を領していた。鎌倉府の足利基氏に対抗して失脚後、領国の伊豆へ逃れた。国清は伊豆の土豪達を糾合することで基氏に抵抗しようとしたが、伊豆の土豪達の協力は得られず、三津城や金山城を落とされるなど敗戦を繰り返し、最後の牙城として籠城した修禅寺城も落とされ、基氏に降伏した。

    1. 狩野川に削られた堀越御所

足利茶々丸は、初代堀越公方足利政知の子。堀越公方に決まっていた潤童子(異母兄)と継母とを殺して、事実上の公方となった。興国寺城にいた北条早雲が混乱に乗じて伊豆に攻め入るが、従来説では、この時点で早雲に敵せず、願成就院において自刃したとされていた。近年の研究では、明応4年に早雲によって伊豆国から追放され、山内上杉氏や武田氏を頼って伊豆奪回を狙っていたことが明らかとなっている。明応7年、甲斐国で早雲に捕捉され、自害した。


    1. 北條早雲の伊豆討ち入り

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。しかし、近年の研究では室町幕府政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流とのこと。今川義忠の家督継承の争いに、義忠と妻北川殿(早雲の姉妹)の嫡男龍王丸を支援して勝利した早雲は伊豆との国境に近い興国寺城と所領を与えられた。茶々丸を追い落して後は、伊豆国韮山城を新たな居城として伊豆国の統治を始めた。高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の土豪や領民はたちまち早雲に従った。それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われる。

その後、小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した後、小田原城は後に後北条氏の本城となるが、早雲は終生、伊豆韮山城を居城としている。その居城跡は、狩野川の桜公園の近くにある。

    1. 伊豆の在地領主(伊豆衆)と伊豆水軍

早雲は、漁業や水運に従事していた土豪を水軍化した。長浜水軍・富永水軍・他西伊豆・下田各地に水軍を設けた。

    1. 武将も浸かった熱海の湯

今川氏輝豊臣秀次徳川家康などが熱海の湯に湯治に来た記録がある。

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