牛歩的写真中心網録”

伊豆半島ジオパークと道祖神を中心にアウトドア活動を、写真で記録しています

三宅島ジオ巡り-3 北部~西部

二日目の雄山入山後の午後から三日目の午前にかけて、島の北部から西南部のジオスポットを巡った。一部のジオスポットを巡る余裕が無かったが、三宅島の噴火歴史を理解するには十分だった。一日目-好天で猛暑・強風、二日目-曇り時々晴れ、三日目-弱雨で、活動には問題なかった。

島役所跡

事代主命が三宅島に上陸した土地ということから神着の地名が由来するそうです。椎取神社付近に上陸したという説もあったが。神着は、三宅島の中心的役割をしてきたそうで、ここに韮山代官の命を受けて島政を司っていたのが壬生氏で、その屋敷の一部が旧役所だったそうです。
役所は御笏神社への参道沿いにありますが、参道の向かいには大きなビャクシンがあります。
役所近くには、オオシマザクラの大木があります。
駐車場のガクアジサイ


画像が多いので、パケットを大量に消費します。スマホの場合は、WiFiに接続してご覧ください。

御笏神社

島役所と都道を挟んだ山側に、御笏神社があります。
御笏神社の拝殿。事代主命の后、佐伎多麻比咩命を祀ります。島で唯一の茅葺屋根だそうです。
拝殿の左側には、いくつかの摂社・末社がひっそりとたたずみます。
本殿への石段には、丸石が揃えて敷かれています。
雨に誘われて、カタツムリがはい出てきた。
本殿

伊豆岬

島の北西端に位置する伊豆岬は道路から近くて便利なジオスポットで、過去1万年分の地層が観察できるそうです。展望台は、シマシマの地層の上に建つ。
村道の上部のシマシマは2500年前に、スコリア・軽石と黒ボク土の互層が堆積したもっとも新しい地層です。5回以上の噴火が読み取れるそうです。
村道の海側には、2500年より古い時代の噴出物です。
上部には八丁平火山の豆石(上昇する噴煙柱の中で火山灰と水蒸気が凝縮して丸くなったものが降下したもの)が白い縞々の地層の中に見られます。
ぶつぶつしているのが火山豆石
シマシマの互層の下部は、角礫岩が堆積している。
更に下部には、黒い水冷破砕岩があり、海底噴火の跡を示唆する。
南西12kmの沖には、大野原島(三本岳)が霞む。
新島の右に、伊豆半島と富士山が位置するが、あいにくと霞んで見えない。
南側奥の岬は、今崎海岸あたり

大船戸大橋からの展望

伊ヶ谷港手前の大船戸大橋付近からの展望。大船戸湾を囲む50mもの高い海食崖は三宅島でもっとも古い地層。

伊ヶ谷港

伊ヶ谷港の北側に見える地層は、数千年前から数万年前に形成された古いもの。

為朝の袂石

左側の大きな石は源為朝が腰掛のために懐に入れて持ち歩いたといわれる袂石ですが、誇張しすぎでは?
袂石の左側には、下山観音が祀られています。

旧阿古集落

1983年の噴火以前の旧阿古集落は温泉郷として繁栄していた。(集落跡を見下ろす都道沿いのスポットに建つ看板をコピー)
現在の風景。520世帯・1300人が暮らした集落は,2時間足らずのうちに溶岩原に覆われてしまった。幸い、住民は無事避難できたそうです。

鉄砲場

1983年の噴火で、自動車修理工場にあった自動車が溶岩流に飲み込まれてしまった。一部が見えていたそうですが、今では草で覆われて、判りません。上の平たい大石の下あたりのようだが。
1983年の二男山付近で始まった噴火は、割れ目火口が広がって、90か所以上の火口が開きました。古い桑の木平カルデラのもっとも低いところを越えた溶岩流は、この場所を通過して、旧阿古の集落へ押し寄せたのです。

人形岩

旧阿古に降りる村道沿いの山に露頭する岩。見る角度によって、人間の顏に見えます。火の神様の顏のほうがふさわしいと思うが。
念のため、別の角度からも。(周囲を回ってみたが、こちらからの角度が顏に見えるのでは)

火山体験遊歩道

1983年の二男山山腹の割れ目噴火で流れ出した溶岩流で埋没した阿古小中学校と旧阿古中学校跡は、埋め尽くした溶岩原の中を木道で巡ることができます。村道沿いに設けられた駐車場から、溶岩原を見上げる。正面に、埋没している旧中学校の建物の上部が見える。
木道に沿って歩けば、溶岩流のすさまじさが体験できます。この地下には、旧阿古の集落が埋没していると考えると、厳粛な気持ちになります。
溶岩を流した雄山方面を眺める。溶岩流の表面には、ゴツゴツとしたアア溶岩のクリンカーが覆いつくす。黒いクリンカーは、気孔が多く比較的軽い。
溶岩樹型のようなものが見える。
盛り上がったツノも、溶岩樹型なのか?
横倒しになった溶岩樹型か、小さな溶岩トンネルか?
溶岩流の源頭の二男山は、稜線の先にあり、見えていない。
アア溶岩の溶岩原には、イタドリやススキ他のパイオニア植物が広がっている。
パホイホイからアア溶岩に遷移中に固まったか?
大きなツノをした溶岩流が旧小学校に襲い掛かる。
アア溶岩の下には、パホイホイ溶岩が覗く。
ミニ溶岩トンネル?
旧小学校に襲い掛かる溶岩流。
都道のあたりでの溶岩流の厚さは2~3mていどですが、校舎にせき止められて10m以上にもなって、校舎や体育館に入り込んでいます。
小学校校舎と体育館の間の隙間を溶岩流は流れていきます。
体育館を飲み込もうとする溶岩流
屋根は落ち、鉄骨は曲がっています。
小さな溶岩樹型があちこちに見えます。これはチクワに見えます。
旧中学校の二階建て校舎の屋上に迫る溶岩流
噴火前日は小中学校合同の運動会が開かれ、当日は休校日だったので、被災を免れました。
校舎の間の隙間を流れ落ちる溶岩流
溶岩原に根付くスカシユリ
体育館を村道側から見ると、溶岩流が流れ込んでいることが分かる。
旧小学校校舎と体育館の間
旧小学校跡を海側から。
旧小中学校を村道越しに。
旧小学校前の海岸にも溶岩流は流れ込んでいる。

今崎海岸

溶岩流で埋め尽くされた旧阿古集落の西端で、今崎海岸とのT字路あたりに、溶岩流を開削して村道が走る。断面には、パホイホイ溶岩を覆うアア溶岩のクリンカーの違いが明瞭。
その海側には溶岩流が海岸を埋め尽くす。この付近は、2000年の阿古集落を襲った溶岩流と、1643年のコシキスコリア丘からの溶岩流の境界に当る。地質図幅からは、コシキスコリア丘溶岩流のようだ。
溶岩崖の下部が海食されて洞穴ができている。
溶岩トンネルが破裂して開いたかのような地形か見られる。
今崎海岸は、1643年に中腹のコシキ穴というスコリア丘(鉄塔のアンテナの上)からの溶岩流が広がった溶岩扇状地。現在の阿古の集落は、この扇状地の上に造られた。(残念ながら、コシキスコリア丘の火口に入る余裕が無かった。)
メガネ岩は、今崎海岸の南の溶岩流の下部が侵食されたもの。右の眼鏡は天井が崩落してしまった。
右側の崩落部と北側

七島展望台

二男山と呼ばれる古い噴石丘が、七島展望台と呼ばれていて、車で登れます。赤く高温酸化した溶岩やスコリアが積み重なっています。
正面に雄山の火口縁が見える。表層の黒いスコリアは、1983年の山腹割れ目噴火で放出された噴出物
天気の良い日には、北は伊豆大島から南は八丈島までの、七島を見えるらしいが、最も近い御蔵島もかすんでいる。
新島はさらに霞んで、七島の展望は無理だった。
1983年の噴火はこの付近で最初の火口が開き、噴火割れ目は上にのびて牧場上部に達した後、海岸まで火口列を形成し火のカーテンとなりました。 流出した溶岩流は、下方の砂防ダムがある低所を通って、阿古の集落まで流れ下っていきました。
雄山斜面下部に村営牧場跡の建物が見えます。噴火前には、この草原で放牧がされていた。1983年の噴火の後に村営牧場はいったん復興されましたが、 2000年の噴火による火砕流や噴石、降灰や火山ガスの放出で甚大な被害を受けています。さらに追い打ちで噴火後は泥流や土石流が多発してしまい、牧場は壊滅的な被害を被り現在の姿になったそうです。
七島展望台への道路途中に咲いているガクアジサイ
七島展望台手前に、雄山の展望が良い場所があったので、路肩駐車で撮影。上部の植生が回復しないうちに、雨水が谷(ガリ)を刻んだ。

富賀神社

富賀浜(今回は行けなかった)の入口あたりに富賀神社が建ちます。
二本目の鳥居の先に、拝殿が見えます、
事代主命、伊古奈比咩命、阿米津和気命の3柱が祀られています。
拝殿裏には、4柱の摂社・末社が並びます。
拝殿の奥に本殿と神輿殿への石段がありますが、立ち入りは禁止されている。三嶋大社三島大明神の1柱である事代主命と、白濱神社の伊古奈比咩命のルーツに触れて、ようやく三島大明神の霊験が新たになった。
境内に見事なガクアジサイの株がある。

雄山体験入山と三嶋大社のルーツ確認という大きな目標をクリアできた。生きている火山島・三宅島の噴火史とそこに覚悟を決めて住む人々の思いに触れることができた良い旅であった。次は、神津島に行きたくなった。

光害の少ない島での星空を撮影しようと、重くかさばる三脚を持っていったが、曇り空で星景はあきらめた。同様に、ドローンでの空撮を予定していたが、強風と空港近くの飛行制限から、あまり活用できなかった。その他に、3D撮影できるように機材を持ち込んだが、余裕が無かった。

お世話になった民宿のヒロさん、ガイドの皆さん、他の皆さん、ありがとうございます。

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